Enzo Anselmo Ferrari
エンツォ・フェラーリ

2メートル近い巨体と大きな鉤鼻が特徴で、佇まいに周りを圧するようなカリスマ性を宿していた
晩年は黒いサングラスがトレードマークであった。
☆直筆サイン・・フェルナルド・アロンソ
☆直筆サイン・・ フェリぺ・マッサ
BT46
開幕直前、ブラバムのゴードン・マーレイは前年の8月に早くも発表していたニューマシン
BT46のテストに苦しんでいました。
BT46はラジエターを排した表面冷却器という野心的な試みがされていた。
《下記の模型写真》 コクピットの横に張り付いている白いタイル状のものが表面冷却器で、
片側9枚の冷却パネルはモノコックの補強材も兼ねていました
BT46では三角断面モノコックの側面に薄いヒートエクスチェンジャーパネルを並べ、
ボディ表面を流れる気流でエンジン冷却水とオイルをクーリングする方式とした。
エンジンの冷却水を放熱用の金属板の取り付けられた隙間に流すことで冷却するというもので、
ラジエターが抱えた大きな抵抗、重量と無関係になるという優れたものとなるはずだったのです。
※参考にしたのがシュナイダー・トロフィー・レースで活躍した水上競争機、スーパーマリン S.5である※
ラジエターの無くなったノーズには、通常のフロントウイング2枚が取り付けられた。
アッパーカウルはロールバー後方で短く切り落とされ、エンジンカバーは低く平らに成形された。
リアウイングはウルフ・WR1に倣い、太い鋼管チューブで翼端板を支持した。
テスト走行では期待通りストレートスピードが顕著に上昇した。
ボディ表面に発生する境界層が冷却装置の熱交換を妨げ、真冬のシルバーストン・サーキットでも
水温がオーバーヒートした。
冷却システムは実戦向けの対策を施すには時間が足りずお蔵入りになったマシン。
BT55
R. PATRESE 1986
E.DE ANGELIS 1986
ブラバム・BT55はフラットボトムマシン、ブラバムが1986年のF1世界選手権に投入した
フォーミュラ1カー。設計者はゴードン・マレー。
BT-55は徹底して車高が抑えられ直4のBMWエンジンも72度まで寝かし、そこまで低さにこだわったのは
空気抵抗とドラッグを減らし、より多くの空気をリアウイングにあて ダウンフォースを稼ぐために設計された。
ドライバーの肩が露出するほどの異様な低さは、ドライバーの胴体は 寝そべった姿勢だったらしく、
BMWターボの強烈な加速とあいまって全力加速中は直ぐに空を見てしまっていたようです。
"スケートボード"などとあだ名がついたマシン。
G.マーレーは開発を進めBMW4気筒ターボで当時のエンジンの中ではトップクラスの出力を誇っているが
他のメーカーのV6に比べエンジン高が高く空力的に不利 そこでゴードン・マレーはそのBMWにエンジン
を横倒しして搭載できないかを考案し BMWはその考案を受け入れたのですが、現行のエンジンを
単純に横倒しにする訳にはいかずほとんど新設計で 真横も無理でBMWに直列4気筒を左に72度傾けた
新エンジンを開発させ、専用7速ミッションをが実現された左72度の角度になり革新的形状がBT55である。
新開発のミッションは信頼性に乏しく、初のモノコックのカーボンやエンジンに併せた変則7速ミッションなど
アイディアを実現させた為か86年の成績のはパトレーゼが6位を数度獲ったがリタイヤを繰り返す。
無理矢理エンジンを寝かしたためか、トラブルが続発失敗マシンの烙印を押されてしまいますエンジンも
コーナリング時のGで潤滑に問題が発生するなどトラブルが多発し僅か2ポイントに終わった。
5月25日第5戦ベルギーGP アンジェリスはマシンのテスト中にクラッシュ、当時は今と違いテスト用の
サーキットにはオフィシャルや医療設備の義務がなく救助に遅れ、収容された病院で翌日に
亡くなってしまう。、この事故でテスト走行での救急体制が見直されると共に、
ターボエンジンの禁止が議論された。
※アンジェリスはF1のドライバーが集まって会議を開いていていた時に意見の対立から会議場全体が
殺伐となった時、会場の脇に合ったピアノを弾いて会場の雰囲気を一瞬にして静めたってエピソードが
ある「F1最後の紳士」ともいわれたようです。
BT52B
第9戦イギリスGPからBT52に代わって改良型のBT52Bが実戦投入されたが、外見で目立つ特徴は、
フロントサスペンション周りのカウルを見直したことにより、サスペンションを収納するための
バルジがなくなったこととカラーリング白と青の部分が反転していることである。
ただし、リヤウイングのパルマラットの部分は変更されなかった。
BT52
1982年11月に安全上の理由からグランドエフェクトカーが禁止となり急遽フラットボトム規定に合致した
BT52を製作することとなった。
ブラバムのデザイナー、ゴードン・マレーは、慌ただしくマシンデザインを急ぐ他チームが試行錯誤の中、
明確なコンセプトを持ったBT52を他チームを尻目に、このレギュレーションをうまく利用した
新しいコンセプトのマシンを登場させます。大きなサイドポンツーンが不要になったため、
車体をコンパクトにすることを念頭に、車体は短く、サイドポーツンは極端に切りつめられ
リヤタイヤ付近に最小の大きさとなった
レース途中のタイヤ交換、燃料補給を前提にした小さな燃料タンクを装備し、
コンパクトなBMW直列4気筒ターボエンジンのため、車体全体も非常にコンパクトにまとまり、
三角形のフロントウイングを装備したそのスタイルは、まさしくイカ型。
リヤタイヤへの荷重を増やすもくろみもあった。ダーツの様な外観の車体は
ダウンフォースを特大のリアウィングで稼いでいた。
モノコックは軽量化の為アルミとカーボンファイバー素材を使用している。
エンジンはKKK製ターボを搭載したBMW直4ターボエンジンで、予選仕様で750馬力、
決勝仕様で640馬力を発生させた。、前年までのマシンデザインから一線を画した、
注目すべきスタイリングのクルマでした。
BT52は運転が容易で、ネルソン・ピケも好成績を収めた。好敵手のルノーのアラン・プロストや
フェラーリのルネ・アルヌーに対し不運続きであった事もありシーズン半ばにはタイトルを
落としたように見えたが、燃料供給元のカストロールがBMWエンジン用の特別な燃料を開発、
またルノーがシーズン後半にはエンジンの開発を止めてしまった事も重なりシーズン3勝をあげ、
ターボエンジン搭載車での初のワールドチャンピオンという栄誉に浴する事となる。
チームもコンストラクターズポイント3位でシーズンを終えた。
LOTUS88
LOTUS88B
ツインシャ―シ
ロングビーチ・ブラジル・アルゼンチン
イギリス
ロータス 88は、チーム・ロータスが1981年のF1世界選手権参戦用に開発したフォーミュラカー。
1981年は、ウイングカーのサイドスカートが禁止された年で ロータスは新たな方法を考えて
デビューさせたのが、「ロータス88」である。
第1戦のロングビーチGPに88を持ち込み、車検を合格しプラクティスを走行するも予選で走ることはあっても、
本戦で走ることはなく葬り去られたマシン。
ロータス88の特徴はツインシャーシ、グラウンド・エフェクトを獲得する為に考案された
幻といえるマシン
【ツインシャーシとは】
「第1シャーシ」
モノコック、エンジン、ギアボックス、サスペンションがついている
「第2シャーシ」
サスペンションアームにボディカウル、サイドウイング、リアウイング、ラジエータがついている
サイドポンツーンを含むアッパーカウルをシャーシから分離し、モノコックとはスプリングを介して
フローティングマウントする この構造によって有効な速度域(時速80kmくらいから)に達すると
アッパーカウルは沈み、グラウンド・エフェクト効果を発揮し高速で走行すると、「第2のシャーシ」が
下部の「第1のシャーシ」を押さえつけ、サイドウイングと路面とのスキマを閉ざし
「サイドスカート」の役目をし また「第1のシャーシ」は直接ダウンフォースを受けないため、
サスペンションをガチガチに固める必要がなく、ドライバーの乗り心地及び安全性の確保と
性能を両立するしなやかなセッティングを施すことができた。
1981年当時のレギュレーションでは「いかなる空力装置も可動してはならない。
ツインシャーシの独特の構造をもつアッパーカウルとなるサイドポンツーンは
「グラウンド・エフェクト」を考えれば紛れもない空力装置であり、可動することは
「空力装置は可動不可」ルール上認められるはずはなかった。
それに対してロータスの主張は「シャーシそのものが上下動するのであるから合法である」
というもので「これはボディの一部であって、空力装置ではない。」
と反論しましたが、他チームの猛烈な抗議により、フリー走行しか走ることができなかった。
ロータス88その後も何度かGPに88を持ち込み合法性をアピールした ロータス88は
完成されたマシンだったのか、失敗作だったのか不明である。
また、88からモノコックの材質が従来のアルミニウムからカーボンファイバーに変更された。
チャップマンが考えた開発の狙い、動機は「空力荷重、ダウンフォースを車体本体から切り離す」
ことにあり、メカニカルシャシーのサスペンションと空力シャシーのサスペンションを分けることで、
それぞれに最適なサスペンションになり、理想的な効果を得られる、というものだったのです
Ferrari312F1 ’67
ロレンツォ・バンディーニ
絶筆


【JeoHondaコレクションより】
1967年はフェラーリが開幕戦南アフリカGPを欠場したため、第2戦モナコGPが初陣となった。バンディーニはレースの終盤、
トップのデニス・ハルムに次ぐ2位を走行しており、その差は徐々に縮まってきていた。
しかし疲労からか88周目にヌーベル・シケインでコントロールを失いクラッシュした。マシンはパーツをばら撒きながら横転し出火、
この際に漏れたガソリンに引火したため爆発を起こす結果となった。炎上するマシンに長時間取り残されたバンディーニは3日後に病院で死亡。
31歳だった。
事故の際、一定時間燃え続けた後、マシンはほぼ鎮火しかけていた。
しかし取材用のヘリコプターが接近しすぎたため再度炎上し、救出作業をより遅らせる結果となった
BT46B
1978年。BT46B、通称「ファンカー」が一戦のみグランプリに姿を表し、「低速域」のダウンフォースなら、BT46Bが最強です。鬼才「ゴードン・マーレイ」が考えたのはエンジンルームを密閉化し、マシン後方にファンをつけることでフロア内の空気を強制的に排出する事でマシンの下面と路面を密着させる、低速域から強力なダウンフォースを発生させるマシンで スウェーデングランプリに出走し見事1‐2フィニッシュを果たしましたが、1戦のみ走ったBT46Bです
第8戦スウェーデンGP。ニキ・ラウダがドライブし、デビューウィンを飾りながら、リアエンドに取り付けられた冷却用ファンが可動する空力デバイスに当たるとのクレームを受け、次レースから同システムの使用が禁止された。第9戦以降の出場は認められなかった幻の珍車といえるマシンです。
1988年10月に行われた第15戦F1日本GPに、ラルースローラのY.ダルマスが耳の病気で欠場し中耳炎により急遽欠場となったヤニック・ダルマスの代役として決定されたドライバーは、翌年からF1デビューを決めていた亜久里であった。これがレース最高峰F1デビューとなった。 亜久里はフジテレビF1中継の解説者として鈴鹿入りする際の新幹線内で ラルースチームからスポット参戦という決定により 思わぬ形でF1デビューを飾ることとなった亜久理は、急遽後発のスタッフに自身のヘルメットを持参させ、ヤニック・ダルマスのレーシングスーツを着用してレースに臨んだというエピソードがある。
この時のマシンは非力で急な参戦ということもあったうえにマシンのセッティングも万全ではなくレース中に数回のスピンを喫たがドライビングによりマシンを操り16位と完走を果たした。
Tipo159

【GPレースに無敵を誇った四つ葉のクローバー〝みつば〟のフロントグリル 】
ティーポ158~159について
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
アルファロメオ 159 グランプリカー 1951年
フロントエンジン・グランプリカーの集大成
初代ワールドチャンピオンマシーン 〝ALFETTA〟
直列8気筒DOHC ルーツ型スーパーチャージャー装着
158の次のマシンが159はとなる。158とは最初の15が1.5リッター次の8は8気筒を表している 出力は大戦直前の225Hpのままであったが年々改良が加えられて、
スパー・チャージャーを2段にし,
1951年の[159]は実に425Hp/9600rpmまでパワー・アップされた。158最も大きな違いはリア・サスペンションをスイング・アクスルよりド・ディオン方式に変更した事で、
1951年の開幕戦スイスGP、次いでベルギーGP、フランスGPとアルファロメオ159は勝ち続けた1950・51年のシーズンには今では伝説のドライバーとなった、
J・M・フォンジオ、ジュゼッペ・ファリーナなどの名手の操縦により数多くの勝利をおさめ
チャンピオン・シップを獲得した。
159はパワーアップした反面、燃費が悪くなりタンク容量の増加による操縦性の悪化とレース中ピットストップが多くなるという燃費その他の弊害に悩まされていた事も反面にある。
917 long tail '70
【歴史上もっとも成功した偉大なレーシングカー】
Long tailは直線での走行安定性向上を狙って通常のボディより、リアオーバーハングを490mm延長してある
1968年の国際メーカー選手権ではフォード・GT40と勝ち星こそほぼ互角であったが力負けしたポルシェそこでライバルと同じ土俵で
勝負するために新設計/製造された排気量約5,000ccのスポーツカーがポルシェ917である。
917が初公開されたのは1969年3月のジュネーブモーターショー。排気量5.0リットル以下、最低重量800kg空冷4,494cc水平対向12気筒エンジンで、水平対向6気筒エンジンを2基直列当初から520馬力以上を発揮した。
917は1969年FIAの国際メーカー選手権参戦するために開発されたレーシングカーで 1969年8月のエステルライヒリンク1000kmスポーツカークラスで初勝利を挙げ、早くも頭角を現す。
1970年には4907cc(600ps)にパワーアップしてシーズン10戦中9勝という圧倒的強さを見せつけスポーツカークラスを制した。
ポルシェはメーカー世界選手権タイトルを獲得。さらに同年6月14日、ル・マン24時間耐久レースでポルシェは待望の総合優勝を果たし遂げた。
数々のモータースポーツで勝利を収めたポルシェを代表するレーシングカーである。
1971年も917の活躍は続き、スポーツカークラスとルマンを制覇。とくにこの年のルマンで記録した平均車速222km/h、走行距離5335.313kmは、現在でも破られることのない偉大な金字塔である。
「歴史上もっとも史上最速かつもっとも成功した偉大なレーシングカー」がポルシェ917である。
マトラMS80
将来のもっとも有望なワールド・チャンピオン候補、ジャッキー・スチュワート選手が乗った69年のマシン「マトラMS80・フォード」。これは、ジム・クラークの優勝記録回数を破り、3度F1世界チャンピオンとなったフライングスコットジュニアこと“ジャッキー・スチュワート”が、69年に最初のワールドチャンピオンになった時のマシン。 1969年には、マトラMS80フォードを駆って、初のF1ワールド・チャンピオンになった ちなみにマトラ・チームの通算勝利は9勝。
LOTUS56B
(Lotus56B Gasturbin)
【F1の珍車】
1971年9月のイタリア・グランプリに登場しているロータスのガスタービンカー「56B」。
このエンジンは、元々インディ500レースを走ったものをベースとしている。
ガスタービン・エンジンを搭載しアメリカのインディなどで成功を収めたロータス56をF1向けに改造したマシン。1971年F1グランプリに登場したが、車重がネックとなりその車重によりブレーキの効きが悪い。ノンタイトル戦を含め数レースに投入されましたがF1特有のコーナーの多いレースにはブレーキの効きが悪いマシンは不向きだった。目立った成果は上げられずこの年限りでF1の世界から消えていったF1マシンとしては失敗作だったと言える車です。
ただ、F1界へ次々と新しいアイデアを持ち込んだロータスの生みの親、コーリン・チャップマンのF1かける情熱アイデアだけではチャレンジできない敷居の高さもあって決勝レースまで走ったは意外と少ないもの意欲作として様々な名車と並んで語り継がれる存在でもあります。
ジェットエンジン(ガスタービンアメリカのプラット&ホイットニー製)を積んだF1マシンで、4輪駆動4本とも同サイズのタイヤラジエターが不要のためF1特有の張り出しのないボディーなど外観にも特徴があり珍車といえます
また、決勝レースまで走った珍車はティレルの6輪車、ブラバムのファン・カーと意外と少ないもの。
その中ででも珍しいマシンと言えるんじゃないでしょうか
march711
【空力革命】
マーチ711は初期ウィング時代のティー・トレイ"と呼ばれる特徴的なフロントウイングを搭載して最も目立つマシンだった。
1968年 Rd.10 カナダGPデビューしマーチはコンストラクターズ選手権でロータス、フェラーリに続いて3位と言う
素晴らしいデビューとなった。
F1マシンの空力がまだ試行錯誤の時代に革命を起こそうとしたmarch711。
F1マシンの空力に開発をし始めた過度期でした。
ハードのデザインしたニュー・マシン、711は7人のドライバーが使用し、ロニー・ピーターソンは将来が期待された
すばらしい走71年もマーチの快進撃は続いた。
ピーターソンは優勝こそ無いものの33ポイントを挙げ、ドライバーズ選手権で2位を獲得。
マーチは押しも押されぬトップ・チーム/コンストラクターの仲間入りを果たした
1976年 アメリカ サーティース がラストとなった。
LANCIA D50
【ボディーの両サイド外に燃料タンク】
ランチアは1953年、レーシングカーのD20でスタートする。1953年にスポーツカー・チャンピオンシップが開始された。デビュー戦のミッレ・ミリアでは、3位に入賞する。そして、タルガ・フローリオでは見事に優勝する。
その後、ランチアは、D23スパイダー、D24をデビューさせ素晴らしい戦績を残す。D24は3.2リッター
V6を積む、ビットリオ・ヤーノが開発したマシンで、デビューウィンを後、1、2、3フィニッシュと言う戦績も残す。
1954年も快進撃を続け、D24はミッレ・ミリアやタルガ・フローリオを始めとするレースを制し、9月にはRACツーリスト・トロフィーではD25が制した。
この年、ランチアはメイクス・タイトルを獲得したが10月、ランチアはスポーツカー・レースからの引退を発表する。
続いてランチアは、念願のグランプリ・レースに向け開発したスポーツカーがD50である。1954年からレギュレーションが変わり、自然吸気エンジンが2,500cc、スーパーチャージャー付きが750cc以下となった。
D50は2,480ccのDOHCの90度レイアウトのV8エンジンをフロントに積み、トランスミッションはリアに移さた。ランチアD50は、スペインGPに登場すると、ポールポジションを獲得し最速のメルセデスに1秒もの大差を付けた1955年もGPで活躍するが、ドライバーのアスカーリがフェラーリ車のテスト中にクラッシュ、死亡する事件が起こり
アスカーリの死と、グランプリの多大な費用で1955年に、経営難のためF1プロジェクトを中止した。ランチアはグランプリ・レースからの撤退を決定するその後、ランチアD50はフェラーリに引き取られランチアフェラーリD50となった。
フェラーリF1マシ-ンの中で異色の存在のランチア・フェラ-リD50は620kgと軽量で、最大の特徴はサイドの
燃料タンクで、燃料が減っても操縦性が変わらず戦闘力を高めることで1956年になると本領を発揮し、ーリング・モスを3ポイント引き離し、チャンピオンを勝ち取った。1956年に3つのグランプリを制し、そのポテンシャルの高さを証明した。
Ferrari500F2
【直列4気筒DOHC 2000CC】
1950年から正式スタートしたF1世界選手権では当時最大のライバルにしてENZO FERRARI自身がかつてレーシングチーム監督を務めたアルファロメオはその年のタイトルを勝ち取りました。 1952年、F1からアルファロメオが撤退したためより多くのチーム参加の為グランプリタイトルを自然吸気2L以下のF2マシンに懸ける事になって開発されたのがランプレディ設計に寄直列4気筒エンジン搭載のこのFerrari500F2でした。
1954年からの2.5リッター規定に先立ち、1952年から2年間は暫定措置としてF2マシンでグランプリが戦われることになる。フェラーリはランプレディが開発した直列4気筒DOHC 2リッターが500F2 フェラーリに初の栄光をもたらした
2.5リッターのF1に移る前の2年間('52~'53年)はF2規格のグランプリレースが行われていました。52年のフェラーリは8戦中インディー500以外全てに勝利。A・アスカリは6連勝でフェラーリ初のチャンピオンドラーバーとなった。翌53年シーズンは全9戦中5勝をあげ2年連続のドライバーズチャンピオンとなった。500F2は2年間で14勝とフェラーリの強さをみせました。
LOTUS77
F1東洋初開催 in japan
【マリオ・アンドレッティ】
東洋初のF1世界選手権であった、1976年の「F1選手権インジャパン」優勝車であるマリオ・アンドレッティのロータス77
マリオ・ガブリエーレ・アンドレッティは、アメリカ人のレーシングドライバー。
1978年のF1ワールドチャンピオン。CARTも4回のチャンピオンを獲得しいる。
インディ500・デイトナ500・F1チャンピオンを全て獲得した唯一のドライバーである。
アンドレッティ家は一族はレーシング家族として知られ、息子のマイケル・アンドレッティもCARTで
チャンピオンを獲得している息子もF1にも参戦していた。
現在は、マイケルの子である孫のマルコ・アンドレッティもレーシングドライバーとしてデビューし、IRLで参戦1年目で史上最年少優勝を遂げている。マリオの双子の兄アルド・アンドレッティも元ドライバーで、その息子で甥のジョンとアダムはNASCARで活躍する。
1970年代半ばから本格的にF1に参戦するようになり、1976年途中からロータスに加入すると、チャップマンと協力して当時低迷していたチームを徐々に上位に押し上げて行く。
1976年に日本で初めて開催されたF1レース、F1世界選手権・イン・ジャパンでは、豪雨の中で見事なマシンコントロールで、ロータスチームはLOTUS77での初優勝を飾った。1977シーズンは年間最多勝(4勝)。
■■NEW KIT情報’■■
Ferrari250LMデビットパイパー
【リアバンパーの迫出しが特徴】
250LMのLMとはル・マン(Le Mans)の頭文字。フェラーリ 250LM とは、イタリアのフェラーリ社がGTカー250GTOのよりパワーアップした車。
フェラーリ社は1962年から1964年のGT III選手権で、フロントエンジンモデルの250GTOに限界を感じており、その発展型としてミッドシップレイアウトをとる250LMを1963年秋出場させたGTレーシングカー。
しかし当時GT選手権に参戦規定が、年間に100台以上を生産が規定だが、生産が進まずプロトタイプを含め生産32台にとどまり、GTプロトタイプカー選手権に参戦した。
それまでの例にならい、1気筒あたりの排気量を車名としているため、250は250cc×12気筒=3000cc(実際には2953cc)を示す。この3Lエンジンを搭載した車は300PSを発揮した
デビッド・パイパーと長く続く関係を持った。アトウッドは以後5年にわたり、250LMや330P3、330P4を含め、パイパーの緑色のフェラーリを様々なレースでドライブし、スポーツカー世界選手権で何度かポイントを獲得し、マラネロ・コンセッショネアーズチームでパイパーとコンビを組んだ。
1964年にアトウッドはF1でのキャリアをスタートさせたが。アトウッドはこの象徴的なレーシングカーの最初のドライバーの一人となり、ジョー・シュレッサーとマシンをシェアして1964年のル・マン24時間レースに出走したが、マシンから出火したためにレースをリタイヤした。アトウッドの主要な国際的スポーツカーレースでの初優勝は南アフリカで開催された1964年のランド9時間レースで、デビッド・パイパーのフェラーリ・P2でのものだった。
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■■オリジナル KIT情報’■■
VJM02
2009年2月28日フォース・インディアは、2009年のF1マシン「VJM02」を発表。
フォース・インディア VJM02は、マクラーレン・メルセデスとの提携により、メルセデスエンジン、マクラーレンのギアボックスやKERSを搭載する。カラーリングも、インドのナショナルカラーであるオレンジとグリーンがフューチャーされている。ドライバーのレーシングスーツもオレンジのカラーリングに変更となった。
フォースインディアは今年からメルセデスエンジンを積み、エアロパッケージもマクラーレンと技術提携をして速くなる予定でしたがマクラーレンが開発を失敗し、ダウンフォース不足。
そこに、高速サーキットのスパ・フランコルシャン、モンツァというレースが続きました。
ここは、低ダウンフォースでエンジンパワーが活きるコースです。
フォースインディア最大の原因はダウンフォース不足。これだけは、どうにも改善できませんでした
基本的にどのサーキットも、セクターごとに高速・低速・中間を設定していますが、フォースインディアは元々ないダウンフォースに頼らず、ストレートスピード一本に頼るセッティングを施し、それが見事に的中。
フォースインディアのピンポイント開発が当たり、徐々にパフォーマンスを上げていきます。
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Ferrari 330P4
【 レース史上最も美しいマシン】
330P4は、1966年のルマン24時間レースで大敗を喫した屈辱を晴らすため開発された。
1966年の秋、3台製作された330P3の1台を改装して330P4の1台目が完成。(残りの2台は412Pへ改装された)P4は最初のP3からのコンバートを含め全部で4台製造されました。 レース史上最も美しいマシンのひとつとして今もなお語り継がれている伝説のマシン。
フェラーリが『フォードGT』に対抗するために、わずか3台のみを生産したという伝説のレーシングカー。ミッドシップに置かれるエンジンは、4.0リットルV12だ。1966年の12月、翌年のデイトナ24時間レースに備えフロリダのサーキットでテストが行われた。この時のラップタイムはそれまでフォードGTマークIIが持っていたコースレコードを塗り替えてしまった。これがフォード側には脅威となり、後にGTマークIIBを開発、さらにテストタイプだったJ型の改良型をマークIVとしてデビューさせることとなった。
1967年のデイトナ24時間レースでは、フォードGTマークIIBが駆動系のトラブル(ギアボックスのメインシャフトが熱処理不良で破損)で次々と脱落していく中、P4が1・2位、入った。続くセブリング12時間レースではルマンのテストデイに備えるためという理由でフェラーリチームは不参加。そのためマークIVをデビューさせたフォードは、ライバル不在のまま勝利をおさめた。次のモンツァ1000KMではP4が優勝、
Ferrari 312B3
312Bシリーズは、312F1を先代車種に持つ1970年から1975年までF1世界選手権に投入されたマシンで
水平対向ボクサー(Boxer)エンジンを搭載していたことから頭文字を取りネーミングされた。
312B3は、312Bシリーズ3番目のモデルで1973年から1975年のシーズン途中までF1世界選手権にフェラーリから出したフォーミュラカーです。
1970年代の312Tに形状がかなり近い312B3は、前年までの低迷から完全に復調。クレイ・レガッツォーニとニキ・ラウダがドライバーでレガッツォーニ1勝、ラウダ2勝。ドライバーズランキングもレガッツォーニ2位、ラウダ4位と快調した。
フェラーリは'73イタリア・グランプリに、新しいフォーミュラカー(312B3S)で現れました。ボディーが広げられ、ラジエターはまたも、フロントタイヤ直後に、前屈みに置かれました。そこを通過した空気はボディー上方に抜かれるようになってました。ノーズは薄く削られ、その上に一枚のウイングが載せられていました。フロントノーズは幅広く、ラジエターへの空気取り入れ口として大きなダクトが、小さなダクトはコックピットようで、フロントウイングの形状はノーズと一体になっています、このウイングと、幅広ボデーが、のちのフェラーリのアイデンティティーのようになりました。
1974年、フェラーリは312B3Sの発展型・312B3でサーキットに現れました。ニキ・ラウダとC・レガッツォーニのゴールデンコンビと共に・・・。この年、フェラーリの二人は大活躍をしました。ニキ・ラウダは15戦中9回のポールポジションと2回の優勝でランキング4位、C・レガッツォーニは1回の優勝とコンスタントな入賞でランキング2位になりました。









